ケイのひとりごと。

ライブレポや雑記など。

応援スタンスの再考

どうも。

しがないオタクやってます、ケイです。

 

皆さん、応援している方はいらっしゃいますでしょうか。

僕のこのブログを読んでいる以上、相当なことない限りいらっしゃるのでは、と思っています。

 

 

今回はそんな「推し」への応援の仕方のお話。

とある方の呟きを見て、自分の「応援するスタンス」って何だっけと改めて考えなきゃと思った次第です。

早速ですが、語っていきたいと思います。

 

1.応援初期

僕の推しはやはり雨宮天(TrySail)であり、この方々を主軸に話していこうと思います。

僕が本格的に応援を始めた、と言えるのは2019年4月頃ですが、

この頃はSNS上のファンの存在を知らず「ひっそりと」やっていたので僕以外のファンへは意識も何もありませんでした。

 

そんな中転換点となったのは、8月頃参加していたLINEオープンチャットというコミュニティとの出会いでした。

コミュニティ内には僕が今まで出会ったことのない「同じ人を応援するファン」が居て、そこで初めて交流を持つこととなります。

そのうちTwitter上でも未だ見ぬ方と交流したいな、と思い色んな方をフォローさせて頂きました。

その中で呆気に取られてしまったのが

「長年活動してきたが故のファンの多さ」

「ファンの熱量の高さ」

でした。

凄え絵の上手い人がいるわ、花とか贈って長年支え続けた人が居るわで

「え、やばくね?」という感想しか出てこない始末でした。

 

この時こういった方々の存在に尻込みしたと同時に、どこか「負けたくない」という感情も生まれていました。

この「負けたくない」というのは

・ファンという存在にビビった自分に対して

・長年応援を続けている人達に負けじと自分を主張していきたい

の2つです。

前者は鼓舞であり、後者に関しては何かを企画するのが好きだということに由来するとともに、

僕を語る上で切っても切り離せない厄介者の「プライド」が表出した結果です。

しかしこの後者に関してはあるイベントを経て変化していきます。

 

「The Crealest SKY」です。

 

2.The Crealest SKY以後

このライブに関しての良さは語るまでもないので省略しますが、

僕が感銘を受けたのは「人と人との繋がり」でした。

色んな人が協力しあって花を贈りあったり、メッセージを贈りあったり、感想の詰まった軌跡の本を贈ったりと、「ファン同士の繋がりって、本当に温かいんだな」と思えた場所でした。

僕自身も打ち上げを計画し、その中で楽しい空間を提供できて、共有できたことが何より幸せでした。

そんな現場を経て、僕もまた「人と人との想いを繋げたい」というささやかな目標が生まれました。

その先のどこかでいつか、お花を贈れたらな、とも。

そこからは純粋にイベを楽しんだりもしましたが、3月以降は波乱の連続でした。

 

相次ぐライブ中止、それに伴い自主企画を中止にせざるを得なかったこと。

そもそも、実生活で自我を保ちながら生活することすら叶わなかったこと。

精神が摩耗していることすら気づけない程、当時の自分は追い込まれていたと思います。

 

そんな中、やっとイベントが再開。

制限はあるけれど、生きがいを思い出した僕は「自分なりの楽しみ方で」満喫するに至りました。

イベント後にはブログも書いて…なんて事もやりました。

そしてそのうち、「イベが再開した暁には花贈ったる!!」なんて思ってもいました。

 

ですが、精神を摩耗させた段階で確実に失ったものがあります。

「想い」です。

 

3.『推しスタンス』の再考-優劣などない-

この想い、大まかに分けてまず2つあります。

1つ目が、個々それぞれの感想など。もしくは、それを推しへ贈ること。

2つ目が、1の発展として個々を結びつけ、集まったものを推しへ贈ること。

 

つい数分前までの自分の常識を壊しにいこうと思いますが、

恐らくこの二つには「優劣」など存在しません。

また、誰かへマウントを取る為の行動でもありません。

というか、そうであってはいけないのでは、と自分に刻み込まなければと思い始めています。

 

1年前、僕は「想い」を大切にしていきたいから、という理由で自分の理念を設定しました。

しかし、今の自分に立ち返った時、果たして本当にそれが出来ているでしょうか。

日々の忙しさに囚われている内に、企画を完遂できなかった「悲しさや」「悔しさ」だけが自分の中に残り、

「手段」ばかり目が行くようになった気がします。

1年以上同じ人を応援し、そのスタイルになれる内に、「自分のスタンスが絶対」だと信じ切っているきらいがあります。

 

恥ずかしい事に臆病者を都合よく発動させていますが、本当は断定していい事実だと思います。

 

それでよしんば目立てたとして、何か得られるものはあるのでしょうか。

最後にあるのは、承認欲求を満たした先にある、空虚な何かだと思います。

 

そんな「想い」を蔑ろにした末には、推しを推せなくなった自分しか残りません。

 

上も下も無く、色んなスタンスを認め、もう一度「想い」について、

まずは自分から見つめ直さなければいけないと感じました。

 

この記事を自戒として、残す事をお許しください。

 

それでは。